喜多や
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投球のワインドアップに入る西村幸生
Roots of the Rivalry

西村幸生のこと西村幸生と伝統の一戦のルーツ|うなぎ料理 喜多や

当店は、戦前のプロ野球を代表する投手・西村幸生の生家(西村家の家)です。
阪神と巨人、「伝統の一戦」の原点に立つ人でした。

Born Here

うなぎ屋に生まれた投手

伊勢神宮 外宮の門前、本町。ここが西村家の家でした。当時の喜多やは、まだ魚を商う店だった頃です。

のちに彼は大阪へ出て、職業野球(いまのプロ野球)の草創期にマウンドへ立ちます。伊勢の門前町から、日本の野球の中心へ。その出発点が、いま鰻を焼いているこの場所でした。

西村家の家族写真。両親の後ろに三兄弟が並ぶ
西村家。前列に父・才吉と母・なか。後列は左から幸生、兄・幸之助、弟・久生。昭和12年(1937年)、縁談の折に伊勢から送られた一枚。

この家の三兄弟

才吉となかには、幸之助・幸生・久生の三人の息子がいました。幸生は次男です。

店を継いだのは、末の弟・久生でした。その長男が、いまこの焼き場で鰻を焼く三代目・隆明です。投手と鰻職人は、同じ家から出ています。

Biography

生涯

出生三重県伊勢市本町(うなぎ料理 喜多や)
昭和12年1937大阪タイガース(現・阪神タイガース)入団主戦投手として活躍
昭和12・13年1937–38日本選手権 連続優勝沢村栄治擁する巨人を破る
昭和14年1939現役を離れる在籍は3年間
昭和15年1940家族とともに満州へ新京、のち大連
昭和19年3月1944大連で召集台湾を経てフィリピンへ
昭和20年4月3日1945フィリピン・バタンガスにて戦死34歳
昭和24年1949山田球場で追悼試合巨人対大阪タイガース、西村と沢村のために
昭和50年1975伊勢市営球場前に胸像が建つ3月30日。ご家族がハワイから除幕式に
昭和52年1977野球殿堂入り7月26日、神宮球場でレリーフ除幕

在籍わずか3年。それでも戦前のプロ野球を語るとき、必ず名前の挙がる投手です。

西村幸生投手の投球フォーム
The Pitching

すきのない投法

豪球に加えて、キレの良いシュートとカーブを絶妙のコントロールで配する、すきのない投法でした。打者に付け入る隙を与えない。そういう投げ方をする人だったと伝えられています。

活躍した期間は短いながら、戦前のプロ野球を代表する投手であり、特に巨人には滅法強かったといいます。

The Album

西村家に残る写真

伊勢を出てからの二十余年。中学の野球部、大学の主将、タイガースのエース——そして野球のかたわらには、いつも家族がいました。このうち二枚は、いまも店の壁に掛かっています。

伊勢から大阪へ

昭和3年の宇治山田中学野球部
宇治山田中学野球部、昭和3年(1928年)。後列左から6人目が幸生。この夏は地方大会の初戦で敗れ、甲子園には届きませんでした。
関西大学時代の西村幸生
関西大学の主将として。この一枚は店の壁に掛かっています。
関西大学で投げる西村幸生
関西大学にて。名古屋で2年間の実業団野球を経て進み、のちに主将を務めました。
1936年、ホノルル・スタジアムでの遠征チーム
ホノルル・スタジアム、昭和11年(1936年)。主将として率いたハワイ遠征。2列目右から2人目が幸生。

タイガースのエース

大阪タイガースのユニフォーム姿の西村幸生
大阪タイガースのユニフォーム姿。同じ写真が、ここの壁に掛かっています。
甲子園球場で投げる西村幸生
甲子園で投げる。撮影したファンの方が、のちに家族へ贈ってくださった一枚。
打席に立つ西村幸生
打席にて。投手であると同時に、打っても怖い選手でした。
昭和12年の大阪タイガース
大阪タイガース、昭和12年(1937年)。前列右から6人目が幸生。背番号は19でした。
昭和12年12月、大阪タイガースの優勝祝賀
優勝祝賀、昭和12年12月20日。2列目左から4人目が幸生。タイガースを初の日本一に導いた優勝決定戦で、3勝を挙げました。

伊勢での結婚、そして家族

1933年、船上の西村幸生と東末子
ハワイへ向かう船上で、東末子と。昭和8年(1933年)。ハワイ在住の日系二世で、のちに妻となる人です。
昭和12年4月、宇治山田での結婚式
結婚式、昭和12年(1937年)4月19日、宇治山田にて。故郷で、タイガースに入団した年のことでした。
尼崎の自宅前の西村幸生と家族
尼崎の自宅前で。両親、妻・末子、長女・幸子と。現役時代の一枚。
1944年、召集の前に撮られた家族写真
昭和19年(1944年)、出征の前に撮られた家族写真。本人のもとへ送られましたが、届くことはありませんでした。

のこされた家族と、伊勢に残る名前

1950年、ハワイでの家族
ハワイ、昭和25年(1950年)。四人の娘たちと、母・末子。
1975年、伊勢市営球場前での胸像除幕式
伊勢市営球場前での胸像除幕式、昭和50年(1975年)3月30日。ご家族はハワイから駆けつけました。
1977年、神宮球場での野球殿堂レリーフ除幕式
神宮球場での野球殿堂レリーフ除幕式、昭和52年(1977年)7月26日。左から長女・幸子、妻・末子、弟・久生——当店の二代目です。

これらの写真はすべて、西村家が大切に保管してきたものです。そのうち二枚は、いまもここの壁に掛かっています。

The Rivalry

「伝統の一戦」のはじまり

阪神と巨人の対戦は、いまも「伝統の一戦」と呼ばれます。日本のプロ野球で最も古く、最も長く続いてきた対抗関係です。

その伝統がはじまった昭和12年と13年。巨人には沢村栄治がいて、タイガースには西村幸生がいました。二人がマウンドで向き合った時代が、いまも語り継がれる関係の出発点です。

伊勢の倉田山公園野球場には、両投手の胸像が並んで建っています。片方は、この店で育った人です。

伊勢・倉田山公園野球場に並ぶ沢村栄治と西村幸生の胸像
伊勢・倉田山公園野球場。左が西村、右が沢村。あいだの石には「一球入魂」の文字と、二つの永久欠番——タイガースの19と巨人の14が刻まれています。
1949 · Memorial Game

昭和24年の追悼試合

昭和24年(1949年)3月30日。二人が戦地に散ってから4年後、巨人と大阪タイガースは、ふたりの故郷であるここ伊勢の山田球場で親善試合を行いました。沢村栄治と西村幸生の追悼試合です。

巨人からは川上哲治、青田昇、藤本英雄。タイガースからは藤村富美男、別当薫、土井垣武。両軍がそろい、試合前に一枚の写真が撮られました。

1949年、山田球場での追悼試合の前に撮られた両軍の記念写真
山田球場、昭和24年(1949年)3月30日——追悼試合の前に撮られた記念写真。
1949年の記念写真の中央に立つ6歳の西村隆明

真ん中の子ども

その写真の中央に、帽子をかぶった小さな男の子が立っています。当時6歳の隆明——西村の弟の息子で、いまこの焼き場で鰻を焼く三代目です。

本人はその日のことをほとんど覚えていません。後年あらためて写真を見て、自分の真後ろに川上哲治が立っていることに驚いたといいます。

2014 · First Pitch

65年ぶりの、同じマウンド

平成26年(2014年)3月10日。巨人・阪神の対戦80周年を記念して、両球団は伊勢の倉田山公園野球場でオープン戦を行いました。この地での対戦は昭和24年の追悼試合以来——65年ぶりのことです。

この日、巨人の選手は全員が沢村の永久欠番14を、阪神の選手は全員が西村の19を背負いました。改修されたばかりの球場を、9千人近い観客が埋めました。

始球式を務めたのは、沢村の長女・酒井美緒さんと、幸生の甥・西村隆明——65年前の写真で川上の前に立っていた、あの6歳の男の子です。

2014年、倉田山公園野球場での始球式
倉田山公園野球場、平成26年(2014年)3月10日。背番号19の西村隆明(左)と、沢村の長女・酒井美緒さん(右)。

沢村と西村がマウンドで最後に投げ合ったのは、昭和12年(1937年)9月25日、西宮球場でした。それから77年、それぞれの家族が同じマウンドに立ちました。

In the Shop

店内でご覧いただけるもの

店内には、いまもタイガースゆかりの品が飾られています。ユニフォーム、当時の写真、記念の品。うなぎ屋の壁に野球の品が並んでいるのを不思議に思われる方もありますが、ここが西村家の家だからです。

ご来店の折に、お目に留めていただければ幸いです。ご質問があれば、お手すきのときにお声がけください。

The Archive

くわしい記録

西村幸生について分かっていること——年譜、投手成績、沢村との対戦、見ていた人たちの証言——は、別のサイトにまとめられています。

当店は生家として、写真と家族の記憶を提供しています。

木立の向こうに見える二つの胸像
倉田山公園野球場の一塁側。外宮の東、木立の向こうに二つの胸像が並んでいます。

最終更新:2026年9月28日